和歌山県紀の川市により良き在宅医療や緩和ケアのために広い問題意識持って取り組んでおられる坂口健太郎という医師がおられます。
http://www.nwn.jp/old/kakokizi2013/20131207/hero/1.html

その方が20年にわたって続けておられる「生と死を考える会」にゲストとして招かれ、講演してきました。

まず、自分自身が子どもの頃から考え続けてきた死の問題の解決を平成業成(いまここの救い)と在家主義の2つの点で私にもたらしてくれたのが浄土真宗であったというところを話しました。

19244031_1227117344065118_1059144896_n次に仏教で死をどう捉えるかということについて、刹那無常を通して一期無常をとり詰めるという無常観の話をし、また罪悪観について自力計度の機(分別意識)と性得の機(業織)の2つの心の違いをお話ししました。性得の機については一般の人に分かりやすいように孤独な心、虚しい心というように説明しました。

また臨終に起こってくる三愛、自体愛(自分の身体に対する愛着)、境界愛(家族、財産、地位、名誉に対する愛着)、当生愛(次に生まれる世界への愛着)を抱える人にどう向き合っていくかについて、他の浄土教と比較して真宗の特徴を、私の心の中に清らかな信心を顕現させるのではなく、私の真実のかけらもない、死も病も受け入れることの出来ない愚かな心を、生きている今、阿弥陀如来にすべて受け入れてもらうのだ、だから臨終の姿や来迎は問題にならないということをお話ししました。

その上で真宗カウンセリングを学んだ私は、自己一致(自然法爾)、無条件の肯定的配慮(無縁の大慈悲)、共感的理解(宿業的共感)という態度でもって、臨終の人の抱える問題を自分の問題として聞きながら、一方でまさに邪見驕慢の故に自分の問題として感じられない心があることを見つつ、共に阿弥陀如来に受け入れられていることでわき起こる思いを相手に伝える実践を行なっていることを、トルストイ「イワン・イリイチの死」や戦前に脊椎カリエスで苦しみながら信を確立された藪てい子さんと布教使の方の関わりなどを例にお話しさせていただきました。

如来と出会うということは自己の孤独な魂と出会うことである。世間の肩書きや年齢、性別などと関係なくどうなるかわからない宿業の身を自覚しつつ、人と会い、如来を感ずる、その一端をお伝えできればと思ったことでありました。

少し難解で不充分な講演になりましたが、関係者の皆さまに理解の一助となればと思い長文を書かせていただきました。

その後の懇親会で医師や福祉関係者の方と仏教談義が出来て、とても楽しい時間でした。

それぞれの専門家がこんなに垣根なく生と死について語りあえる場というのは、とても貴重であると思います。尊いご縁に合わせていただきました。 合掌

今回の講演の骨子は西光義敞著『育ち合う人間関係』(本願寺出版社)「ビハーラ活動と真宗カウンセリング」にあります。19369529_1227117350731784_757382392_n