IMG_6461第12回DPCA研究会は読書座談会『教えてお坊さん!「さとり」ってなんですか』
掲載の大峯顕先生と小出遥子さんとの対談を読む企画は新しい人も来られて、8名の参加でした。本もしくは同内容のブログを読むことが参加条件でしたが、ブログを掲載していた彼岸寺サイトがリニューアルで記事が読めなくなってしまい、読んでいなくても参加できますか?という問い合わせが多数来ました。そのため、私が急遽、本の要約を行い補足しながら進めるスタイルになりました。
藤田一照仏教塾で小出さんとお知りあいの方から、小出さんの超人的な仕事ぶりや自分でこれは!と思う方に取材に行くという行動力などの話をお聞きして、小出さんの人物理解に厚みが出ました。真宗僧侶、禅宗僧侶、在俗の仏教愛好家、等の方々がそれぞれの視点で真宗について語りあえることはとても貴重でした。それは、大峯先生自身が「さとり」という真宗では使い方に非常に気をつかう用語と真宗の「信心」を大きな度量でつなげて下さったからだと思います。また、このひらがなの「さとり」というキーワードをぶつけて、自由な対話スタイルで、多くの人が読みやすく、話題にしやすいかたちで、先生方の信仰のエッセンスを引き出した小出さんのおかげでもあると思います。大峯先生がとても心を開いていきいきと語られていると感じましたし、その語りの熱さというものが伝わってくるいい対談でした。
私と仏とは直接的に一緒にいるものなんだ。南無阿弥陀仏と私のあいだに人間の理屈はない。一緒になれば氷と水のように慈悲が悪業煩悩の私の中に流れ込んできて仏と同じものにしてしまう。そういう簡単ではないけれど端的で熱をもったことばが、参加者の心に知的理解でない何かを残したように思います。
また大峯顕先生のおはなしに疑いということばが出てきます。この疑いということばが真宗のバックボーンがない方には分かりにくかったようです。疑いとは知的な意味での疑問という意味ではなく、直接的に私と一緒にいる仏、距離の全くないはずの南無阿弥陀仏と私との間に隔たりをつくってしまう心で、自力のはからい、信罪福心、また通仏教で言えば虚妄分別と言われるものです。また人と比較したりして、自分のこととして聞かない有間心、まだ後があるとおもってしまう有後心の話をしますと理解がふかまったようです。
「信心」にしても「疑い」にしても同じ言葉を使っているが、全然違う意味に理解していることも多いです。宗派では真宗は「さとり(正覚)」は成仏の意味で、凡夫にいただけるのは「信心」!と言葉を厳密に使いますが、実際は信心といってもそれぞれの理解で使っていることも多いんじゃないでしょうか。
今回、信心の翻訳でawarenessがあり、それに該当する日本語が「気づき」か「めざめ」かで議論がありましたが、英語にしてみるというプロセスを経て、その語が何を意味しているのかを考えてみることはとても有意義だと思いました。外国人なら「ドウイウ意味デスカ。ワカリマセン。」で終わってしまうところを、日本人は聖典の言葉を理解していないのにあがめたてまつって、言葉は大事にしているけれど理解は人それぞれということが多いのではないかと感じました。鈴木大拙やデニス・ヒロタ先生など翻訳の聖典を見直すことも大事だなあと思いました。大峯顕先生は真宗での「祈り」という言葉の使用について議論を巻き起こされたことを思い出しました。
対外的にどう表現すれば真宗の境地が相手に伝わっていくのか考えさせられました。わたしは、瞑想体系に引寄せて念仏と信心の意味を考えていかなければならないし、チャレンジしてみたいと思っています。そういう理屈がなくても伝わっていく真宗の伝統の力があるのもわかっています。でもその外側にも多くの人がいる。多くの真宗以外の仏教者と語りあうことで、これからも仏教の本質と伝わる言葉について探求していきたいと思います。参加者のみなさま、多くの刺激をいただきありがとうございました。