以前にNHKの『SWITCH』という番組でアニメ監督の新海誠と作家の川上未映子の対談を見た。川上未映子さんの、自分は小さいころ「自分は死ぬ。すべての人は死ぬ」という当たり前のことを、とんでもないことだと思い、悶えたり、考えこんでしまうタイプの子どもで、その子どもの感覚を今も作品で追求しているという話を聞いて、ああ仲間だ、同志だと感じた。
どうせ死ぬじゃないか、1人じゃないか、人間が生きていても地球を汚すだけじゃないか、結婚・恋愛なんて性欲とエゴまみれを愛という美名でごまかしてるだけじゃないか、こんな苦しい世界に何で産んだんだ、等々、世間では口にだしにくいこと、口に出してもすぐに大人にごまかされてしまうことを追求せざるをえない人たち、いい加減なごまかしでは満足しない、いやできない人たち。

そういう人たちのことを自分と同じという共感も含めてスピリチュアルマイノリティー(略してSPM)と名付けたい。

確実にこの世界には生きずらさを感じて、深淵の上の薄氷を歩んでいるような感覚の人たちがいる。危険な人、社会的不適応者、育てにくい子などと言われ、生きずらさを感じている。もしかしたら仏教教団の中でも修行しすぎる人、求めすぎる人と迷惑がられているかもしれない。その人たちこそ、私は仏教のメインターゲットだと言いたい。
私自身が仏教のコミュニティに受け入れられたと思った瞬間は、子どものころから死ぬことが気になってたまらなかった、そしてそれが善悪という人間の生き方の根本に関わることだと思い悩み続けていたこと、世の中では考えすぎ、若者らしくない、と言われ続けてきた問いを、あるおばあちゃんが「子どものころから死ぬことを考えるなんてなんて尊い人でしょう。」と世間と真逆の価値観によってほめてくれた時だった。
ぜひいい加減な答えでは満足しない人、魂の飢えを抱えている人には住職を打ち倒すつもりで寺に来てもらいたい。

西念寺はスピリチュアルマイノリティ(SPM)を応援します。