ある方に信心は普遍的な体験であり事実であるから、その心相(信心のすがた)とされる二種深信などにも個人的な体験の入る余地はない、だから信心を語る場合に個人的な体験を語る必要はないと言われた。おそらく信心の成立には衆生の三業は一切関与しないという浄土真宗本願寺派の伝統宗学の教義を受けてのことだと思う。そこで私の信心における二種深信を告白して、その問題について考えてみたい。

私は信心を個人的な体験の入る余地のない普遍的体験と捉えることはしない。個人的でありながら普遍的な体験であり、信心とわたしの意識は分かちがたく結びついている。かりに信心そのものが普遍的だとしても常に私の意識、学問、経験がまとわりついた個人的な体験として現れると考えられるであろう。

→僧侶、真宗に詳しい方はAへ 一般向けなので飛ばしても可

それをふまえた上で、その信心のすがたとして親鸞に説かれている二種深信を説明する。善導の『散善義』(現代訳 )

一つには、わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる。

「機の深信(私たちの存在のすがた)」

二つには、阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂め取ってお救いくださると、疑いなくためらうことなく、阿弥陀仏の願力におまかせして、間違いなく往生すると、ゆるぎなく深く信じる。

「法の深信(私たちを救う阿弥陀仏のはたらき)」

いかがだろうか?江戸時代の人ならともかく、これを六道輪廻思想に馴染みのない一般的な現代人で普遍的な事実だと受けとれる人がいるだろうか。迷いとは生死を繰り返すことであり、迷いの世界とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のことである。仏教のお坊さんでも輪廻はないという人がいる時代である。多くの人が理解できない、受け取れない、もしくは自分なりの解釈をするに決まっている。

それに内容が機の深信は迷い続けて出ることができないということで、法の深信は阿弥陀仏が必ず救ってお浄土(さとりの世界)へ連れて行くと真逆の内容が書いてあるではないか。しかもこれが二種一具といって一つの信心の二側面で、時間的前後もないというのだから訳がわからない。しかし、ある方によれば普遍的体験として事実であり、個人の体験の入る余地がないので分かる、分からないは関係ないということになるそうだ。

私の解釈ではこの二種深信の文だけを並べて見ていても、理解できない。そこで説明を加えると、浄土真宗の信心は世間一般の信じるということではなくて、南無阿弥陀仏という名号を疑いなく聞くということなのである。別の言い方では仏願の生起本末を聞くということである。生起とはこの私のことである。私とは何か?ここでさきほどの機の深信が出てくるのである。迷いの世界を出ることのできない私がいたのである。この救う手がかりのまったくない私を何とかして救おうと阿弥陀如来が立ち上がられて、ものすごい長い時間考えられて建てられたのが、あの有名な他力本願である。「私がお前の代わりに気の遠くなるほどの長い間修行して功徳を積んで、南無阿弥陀仏という言葉になって、人間になったお前の耳から心の中に飛び込んで信心になって、お浄土へ連れて行って仏にしてみせるぞ」と長いが、まとめるとこういうことである。これが本である。

そして実際にその本願を実現されて南無阿弥陀仏の名号になられた。そして十劫という長い間待って、やっと私は人間に生まれてきたのである。それまでの間、阿弥陀如来は常に私によりそって、地獄では鬼に見られたり、餓鬼界では食べものに間違われて頭から齧りつかれたり、猫の時も猫に姿を変えられ私を導き続けてこられたのである。そして、やっと念願の人間に生まれてきても、この世大好き、お金ほしい、楽しみたい一杯の私にどうか仏法聞いておくれと必死に導かれ、今ここの私の耳から心のなかに必ず救うてみせるぞと飛び込まれたのである。そして今、私の信心になって下さった。これが末である。

A ここでやっと私の信心における二種深信の告白である。輪廻思想、三世因果の業思想を深く理解して、信心を得て親鸞の著作を深く読んだり、聴聞を重ねていくとこういうように味わえるようになった。輪廻思想とは私が気の遠くなるような長い時間、あらゆる世界をあらゆる衆生としてへ巡ってきたということである。それは永遠でありながら今である。目にうつる全ての生きものは私が生まれ変わりで経験したまさに自分の姿ではないか。そういうふうに信心のはたらきで少し知られるようになってきた。それと同時にその生きものにはすべて阿弥陀さまがついている、もしくはまさに阿弥陀さまであると信知するようになってきた。事実はそうなんだとほのかに知られるという感じだろうか。今この食卓にのぼっているブリもまさに自分であり、私を食べて仏法聞いてくれよと願っている阿弥陀さまである。でもその宗教的事実を知った上でもうまそうやなあとしか思えない私の愚かさ。俗悪な政治家もワイドショーを賑わす人もみな私のすがたの一面であり、また如来さまに願われている人である。しかし、自分の好き嫌いから人を侮蔑することを言ってしまう。そういう私であるが仏法求める人が来たら自然と嬉しくて仕方がない。仏法を求める人、悩む人を前にするとまさに私のすがたに思われ、私をよりそってずっと導いて下さった阿弥陀さまの心が感じられる。その人の存在に向きあうことで、ありがたい心があらわれ自然と仏法を話してしまう。とそして、生死を超えるご縁というとんでもない場面に遭遇しながら、同時にこんな有り難い時間をありがたいと思えない自分の心があのままに感じられる。そういう日常であるから、すべて仏法を味わおうと思えば味わえてくる。ほのかにありがたいなあ。しかし、そうやって浮かれている心を見ながら、本当は恐ろしい地獄を作っている私だとちょっとゾカッとしたりもする。いつ死ぬかもわからないのにボケっとしている私。南無阿弥陀仏。

最近は禅や瞑想系の方にも浄土真宗を分かってもらいたくて、この信心の世界を理解してもらいたいと感じている。わたしが味わっている真宗の信心の世界は輪廻観(そんな瞑想はないかもしれないが)と大悲観(どんな衆生にもはたらき続ける阿弥陀如来)が同時に味わわれ、しかもそれを眺める愚かな心をありのままに観じるビッパサーナー瞑想ではないか(全部やったことないので想像だが)と考えてみたりしている。これが今の私の信心である。普遍的体験と個人的体験、私の文献解釈、そのようなものが入りまじっているが、二種深信の私の理解ということが信心とともにはたらいている一旦を書かせていただいた。

信心の味わいが深まっている?と同時に私の独自の解釈、私の経験によってかたよってると言えると思う。だから、私は自分の宗教体験を語りあうことによって、他の人の南無阿弥陀仏の味わいを聞きあいたいのだ。お互いに偏った凡夫であるが集まって語り合えば気づきがあり、信心が私の小さな枠をぶち破る。こういうわけで私の信心は個人の体験と普遍的な体験が入り混じったものなのである。これが私の信心であると同時にまったくの妄念妄想である。

というわけである方のように信心を親鸞聖人の言葉そのままの普遍的体験、事実としては受けとらず、かなり個人的な解釈、体験を踏まえてしまっている。真宗にはある方がおっしゃるように思うが思うまいが事実ということはあり、聖典のことばがはわたしを超えた真実を指し示していることは言えると思う。しかし、真宗の信心は究極的には不可思議、不可称、不可説の信楽であり、お聖教の言葉と言えども月を指す指で月そのものではないというのが仏教の言語観ではないかと考える。正しく同じ言葉であっても違う内面世界を持つ人間が受けとめるのであるから、かならず解釈が生じる。しかし、それを超えて同じ信心を発起せしめる名号はまさに不思議といわねばはならない。ある人のように名号信心をわたしのはからいのまったく及ばない事実普遍的体験として受けとめるという考え方も理解はする。私の信心観とは違うし、少し批判もあるがまたとしたい。

称名