浄土真宗は「きく」教えと言われ、大切にされてきた「きく」こと。
今回の「聞くことの愉しみ、聞くことの深み」も、大変関心がありました。
いやぁ、衝撃でした。
きくことの概念がひっくり返りました。
それはもはや、きくことを超えた「きく道」。
わたしは今まで、人のお話を「きく」ことは相手の感情やその内容をきくのだとおもっていました。
しかし、今回は違った。
内容は特にきくことはない、それよりも相手の「言葉」を一言一句違えずに追って繰り返すことが一番大切だというのです。
わたしはつい頷きや相槌をしたくなるのですが、それも、相手の世界を左右したり、邪魔するかもしれないので、相手が頷いていない限りは必要ないとのことでした。
今まで、相手の話を聞いて、自分の中に湧き上がってきた感情は、一旦置いて、相手に耳を傾けていたのが、今回は、ずっと相手の「言葉」正確におっていく「型」に集中するので、自分の感情がまず湧いてこない。
どうしても相手の話の内容がきになるけれど、その理解も特に必要ないとのこと。
言葉を正確に繰り返す作業。
それは武道の「型」のようでありました。
自分の内にも外にも語る相手の言葉で満ちている感じ。
しかし、不思議なことに、きくこちらはただ言葉を追っているだけなのに、語り手は自由自在に自己の世界を深く探求し、遊び、時間や空間を自由に行き来しながら、大切な気付きを得ていくのでした。
また、きく最中は、自分や相手の感情を特に観たり、
表出したりしないけれど、お一人の方の語りを、一言一句加減せず文字に起こしたものを解き明かす時間には、みんな自由に自分の感じたことをどんどん発言していきます。
それは語り手の感情のみならず、その時起きた現象、感情になる前の感覚的表現、発せられた言葉に表れた意味なにフォーカスし、もう気が遠くなるくらい⁈丁寧に詳細に読み解いていきます。
すると、どうでしょう。
1人の方の15分の語りが、まるで人生のドラマのように鮮やかに立ち現れてくるのです。それは大切で尊い物語のようで、とても感動的でした。
きく主体はなんなのか?
はてなマークがいっぱい舞う中、わたしは一方でとても満たされていました。
ファシリテーターの澤 祐典 (Yusuke Sawa)さん、吉橋 久美子 (Kumiko Yoshihashi)さん、本当にありがとうございました。
そして、共にいてくださった参加者の皆様ありがとうございます。
「きく」ことがますますわからなくなりました。
次回はお二人の師匠、橋本くにひこさんに、このはてなだらけの赤ちゃんみたいなわたしでぶち当たっていけたらとおもいます。
坊守