僧侶のためのサイコセラピー』ご講師の藤岡延樹師と世話人の澤中道全さんに素敵なコメントをいただきましたのでご紹介いたします。
藤岡延樹師のコメント
「僧侶のためのサイコセラピー」という、刺激的かつ問題的(笑)なタイトルのワークショップ終了。
僧侶限定というワークショップは初めて。参加者全員僧侶という場に立つことはどんなに恐ろしいか、僧侶の皆様ならわかってもらえると思います(笑)
緊張しながらいどみましたが、いつもとは違う、お坊さんならではの面白い場となりました。
みんな私服だし、仏教用語も何も使わないのに、独特の深みが醸し出されていました。
お坊さんて、格好や知識じゃないなと、あらためて。その存在(居方、生き方)がすでにお坊さんだったのだと気付きました。
しかしこのワークショップ、とても興味深い経験となりました。
特に「進化論」とネーミングされているワークが仏教的に見えてきて面白かったです。次回はアレンジして「輪廻と解脱」というワークを考案します!またどこかでやりましょう。
ワークショップで話されたこと、行われたことは、他で話すことはできません(守秘義務)が、それぞれみなさんの「誰に知らない私のエピソード」ワークなどを通じての「秘密の共有」は、結果的に親密さを生むのだなぁとあらたに気づきました。
仏教と心理療法。僕のところで言えば、心理療法的な関わりの中に、仏を見、法を味わうという楽しみがあります。具体的でリアルで視覚化されたフィールドに、それが示現されて見えるという感じです。
ここに集られた僧侶お一人お一人、とても魅力的でそれぞれ多彩な実践をされている方々。ワークショップは参加者の存在が、その場のエネルギーを作り、一つの生命体のように動いていきます。とても受容的で遊び心に溢れた場となりました。皆さんとご一緒できて本当に嬉しかったです!
会場の西念寺(名古屋)さんでは、引き続きカウンセリングやエンカウンターグループ学習会が行われる模様。関心のある方は岡林 俊希住職に問い合わせてみてください^_^
僕もまた声がかかれば、どこにでも参ります。仏教と心理療法と場づくり。やっぱりこれが大好きです♪
澤中道全さんのコメント
◆『僧侶のためのサイコセラピー』お疲れ様でした。参加された方々、共にあの場にいれて嬉しく有難かったです。講師の藤岡師、多くの気づき、視点を有難うございました。心理療法の潮流と宗教・仏教との関係が我々に分かりやすいように苦心洗練されたであろうテキストとレクチャー、楽しいワークとあの緊張感と温かみのあったセッション。尊敬と羨望と嫉妬と情熱がボコボコと沸きました。そして「愛」(ここでは、あえて、「慈悲」ではなく「愛」と呼ばせてください)、奏でられてましたね、奏でられました。(すいません、CDまだ聞いてません)。そして、企画運営、会場準備等お世話をしてくださった西念寺住職岡林師、有難うございました。お疲れ様でした。前日から終日まで、お供させていただき、そのボヤきと念仏の咳、最高です。ぼくは準備の段階からお手伝いできて本当に有難く面白かったです。
◆よく、他宗派の方々といき会うと、教義や法式などあまり触れないように、また、当りさわりのないような話でその場をやりすごす?!みたいなイメージがあります。実際、僕自身にもそんな場面ありました。でもこの場では、雰囲気といい、時間の流れといい、藤岡さんのファシリテートや、西念寺さんの人柄なのか、また参加者の皆さんも、それぞれ自分自身の言葉で語り、自分自身に向き合い、この場にひとりひとり存在していたように感じました。
なんだか、京都で集まっていたDPA研究会のことを思い出しました。僕自身は西光義敞先生には直接お会いできなかったのですが、その薫陶を承けられた方々との居心地よくもたまにびびっとジャックナイフのように飛んでくる?!コメントに汗し涙し、酔って愚痴ってふて寝したかけがえのない時間でした。
◆そうそう、「本来の自己」って何だ?!イメージとしては、清浄で完成されていて…仏性そのもの?!でもどうなの?!それって、今ここの「自己」ではない、たんなる理想の「自己」を求めているだけなんじゃないの?
「今ここで出会う」だけ。
そこに禅宗や真宗や真言宗や仏教やキリスト教やイスラム教やヒンズー教…セラピーもカウンセリングもアレクサンダー・テクニークも介在しない。
そんな思いが湧いてきた今日この頃でした。
ともかくもまた集まりたいです。
「僧侶のためのサイコセラピー」
有難うございました。
◆ホントはこんなことが言いたかったのです。オルダス・ハックスリーの「知ることと、さとること」よりの抜粋っす。
「愛」、余力のある時に読んでください。どうぜん拝
◆カール・ロジャーズ教授は書いています。「ソクラテスは新しい考えを発展させ、それは社会にとって建設的であることが証明された。」なぜでしょう?なぜなら、ロジャーズによれば、ソクラテスは「自己防衛的でないことで知られており、経験に対して開かれていた。そう推論する理由は主に心理療法における発見にもとづいている。もしもわれわれが、動物界の特長である感覚的内臓経験にプラスして、人間だけに可能であるらしい自由な無指向性気づきの能力を持つことが出来れば、そこにあらわれる人間有機体は、文化からの要求にも気づきながら、食欲や性欲など生理的要求にも気づきながら、なかよしの関係性への要求にも気づきながら、自分を強大にしたい要求にも気づいている。他人に対してやさしい自分に気づくと同時に、敵意をもっている自分にも気づいている。もしも人が完全よりも欠けるところがあれば、つまり人が自分の経験の多様な側面についての気づきを否定するならば、その人とその行動は恐れられる理由がしばしば生じてくる。このことは現在の世界状況にあらわれている。しかし人がもっとも完全に自分自身であれば、有機体として完全であれば、すなわち経験することについて人間に特有の気づきが完全に機能していれば、その人の行動は信頼される」というのです。
遅かったけれど、まにあいます!いにしえより秘教の智慧としてあたりまえのようにいわれていたことが、最新の心理療法の新発見としてあらわれてきたことには心休まるものがあります。それは「汝自身を知れ」ということでした。
…わたしたちの手持ちのことばのなかで、すりへり、手垢にまみれ、使い古されたことばはたくさんありますが、そのなかでも「愛」ほど、臭く、泥まみれで、ベトベトとしたものはありません。何百万の説教壇からわめきたてられ、何千万のスピーカーから挑発的な歌声でささやかれ、それは下品で良識に反することになり、口にするのもはばかられることばになりました。しかしながら、はっきりとこれは口に出して言わなくてはなりません。最終的にいえることは「愛」しかないのです。
(『多次元に生きる』オルダス・ハックスリー/片桐ユズル訳)
お二人ともありがとうございました。今後の活動にもご協力よろしくお願いします。

合掌