澤中 道全和尚のアレクサンダー・テクニークWSテーマは「距離」でした。

はじめにきんの音を最後まできいてみるところからのスタート。

きんの音って消えるまでこんなにも長く響いていたのかという驚き

最後までちゃんと聴くと、その響きは途切れずにずっと、自分の内側で響き続ける感覚があった。

物事、行動をはじめから最後までちゃんと見送るということ。

次に「食べるワーク」

どうぜん和尚が用意してくれた山梨産と思いきやアメリカ産wの干しブルーベリーをまずは自分で食べてみる。

ブルーベリーを自ら「食べにいく」「むかえにいく」癖があることを確認。それも口だけではなく胃からむかえにいっている様子。

次は「ブルーベリーの方から口に入ってくる」をイメージして行うと…やっぱりどうしてもむかえにいってしまうわたし。

そこで、和尚がわたしの首あたりと、胃の後ろを手でサポートして、また行ってみると、ちゃんとブルーベリーの方から口に入ってきてくれた!その意識の変化だけで、なんだかより、ブルーベリーが味わい深いし、よく噛んで最後まで大事に胃に送ることができる。

次に二人組みになってブルーベリーを食べさせてあげるワーク。

人からいただいた方が断然味わえるし、美味しい!!と新鮮な発見。

いただいてからの胃に届くまでの距離を感じることができた。

和尚からはティクナットハーン師の吸う息に「こんにちは」と心で唱え、吐く息に「ありがとう」と唱える瞑想を教えていただく。

また、お茶を置くときも置いてすぐ去るのではなく、自分の手から離れた後もそれをちゃんと見送るということ。

するとどうだろう。その場、物、行為、人に対する慈しみが生まれるのだった。

禅宗では食事をいただく前に必ず五観の偈をあげるそう。

それはいただくたべものがここに調うまでに、さまざまな存在の労をいかに経てきたのか、また、どうやってここにたどりついたのかを観ずるというもの。

また、禅宗の作法として、食事を口にする前に一度頭の上にいただいてから食するのだという。そうすることで、自分からたべものをむかえに行くことなく、自然とたべものが口に入ってくることとなる。

禅宗は作法はとても理にかなっているし、まずは思考するよりも作法によって身につけることで、自然と観ずるというもの、それはとてもアレクサンダーテクニークに通ずると感じたのだった。

また、人との距離感を考えたときに、それはどこから測るのかという問い。

皮膚と皮膚だけなのか?

内臓から内臓ということもある。身体の中からの距離。

皮膚からの距離を変えることができなければ、身体の中からの距離を思ってみるのも良いかも?!

横方向だけでなく、縦の方向の距離もあり、距離をはかるというと矢印のイメージだがもっと空間とイメージできるかもしれないとか。

最後にはわたしの尊敬している神田橋じょうじ先生の言葉、「離魂同体」という言葉を教えてもらった。それに付随して、ゲシュタルトセラピーのパールズの言葉もきかせてもらった。

「ゲシュタルトの祈り

わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。

わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。

私は私。あなたはあなた。

もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。

しかし出会えないのであれれば、それも仕方のないことだ」

最後の「出会えないのであれば仕方のないことだ」は訳し方によっては「出会えないこともステキなことだ」というものもあるらしい。

冷たく突き放すというよりも、わたしは、人は一人一人として出会うことができる、でも出会えないこともあるという「明らかに観る」ということなんだろうなぁと感じた。

とても気づきのある、素晴らしいワークだった。澤中 道全和尚、本当にありがとうございました!!お出会いできましたみなさま、ありがとうございました!

来月もよろしくおねがいします。 坊守