11月30日の

【どうぜん和尚のアレクサンダー・テクニーク テーマは「距離とアングル」】の教師、どうぜん和尚の考察が素晴らしいのでご紹介します。

どうぜん和尚からはいつも新鮮な「アングル」を示していただいています。

これぞ、仏教!

これぞ、真宗!

というアングルがわたしにはあるなぁ。

以下、どうぜん和尚の考察です。

#アングルから除外されてしまう景色がある?!

#右人差し指の向こうには新幹線が?!

#これはアングルのアングルだ?!

「『angleアングル』についてのレポート—アレクサンダー・テクニークとカウンセリングと仏教周辺をめぐる一考察—」

SNSなどでプロフィール写真を見ると、その人の好きなアングルが知れる。

自撮りをよくする若者たち(若者ではなくとも(笑))は、「自分(の外見)をよく見せるアングル」をよく熟知していると思う。自覚的にしろ、無自覚的にしろ。

(angleには「気を引く」という意味もある!)

写真を撮る時、どのアングルから撮るかは、(私にとって)けっこう重要だ。そういうことをあまり気にしない人(うちの父)に会うとイライラする。「ちゃんと撮ってくれ」と思う。ただ、フレームの中に入ってるだけでは不満足なのだ。

場面や状況に合わせ、一番いい(?!)アングルで撮ってほしい。こちら側の要求として、「こういう時はこういうアングルでお願いしたい」という欲がある。アングルを指定したいという欲望。

それは、つまりは、「このアングルで見てほしい(私を、あるいは世界を)」ということ。

また、大勢の人が共感できるというアングルもある。名画や名曲、神話などがそうだ。全人類的なアングル、「平和」や「愛」もあるだろう。

反対に「どんなアングルも気に入らない」というアンチアングルというアングルもあるだろう。

アングルを強要される感じはあまり好きじゃない。そうすると、理想としては「アングル無しで見ること」。まあ、それはそれでアングルに囚われているわけで?!

あの鈴木大拙博士も『東洋的な見方』というアングルを我々にすり込もうとしているし(笑)

仏教も仏教的な、アレクサンダーもアレクサンダー的な、カウンセリングもカウンセリング的な、マインドフルネスもマインドフルネス的なアングルを?!

親鸞聖人は、自分を殺すかもしれない山伏に「左右なく」(こだわりなしに)出てこられた。その姿に山伏はうたれてしまう。けれども、親鸞聖人自身は「左右なく」出ようとしたのではない。山伏にとって「左右なく」出てこられた「ように見えた」のだ。アングル無しに!?

聖人左右なく出あひたまひけり。すなわち尊顔に向い奉りるに、害心まちまちに消滅して、あまつさえ後悔の泪禁じがたし。(『親鸞伝絵』覚如上人)

そもそも、「アレクサンダー・テクニーク」は何で「テクニーク」(フランス語?)何だろうと思ったことがある。「メソッド」でもよかったんじゃないか?

「テクニック」(技術)にした訳があるのだ。

「何だかテクニックなんて小手先のものっぽいな」として嫌う風潮もあるだろう。テクニックの語源は、古来、ギリシャ語の「techneテクネ」。「技術知」「内在する原理を正しく理解した上で何かをする(あるいは作る能力)」「金細工師が持っている実用以上の装飾能力」。テクネは「artアート」(芸術・美術など。また、それにより間接的に社会に影響を与え得るもの)の語源でもある。「人工や人為」という意味もあるのでそれが、「わざとらしさ」や「作為」「ずるさ」にも意味が広がっているのだ。「技」や「術」は「熟練」という意味にも通じるのだが。それだけ「広がり」がある言葉なのだ。

エーリッヒ・フロムは『愛するということ』で記している。

「愛は技術である」と。

しかし、「アレクサンダー・テクニークは技術である」と(わたしには)言い切れませんが(笑)

私としては「アート」でもあり「テクニック」でもあり、「自分自身を知るちょっとした『コツ』」でもいいんじゃないかなと思う今日この頃。

自分自身にとっても、相手の人自身にとっても(自分にも相手の人にも「自身」ていう言葉を添えるだけで受け取り方がちょっと変わる気がする)、あまり余分(?!)な感情などが混在してこないような「アングル」があったら?

お互いがお互いの「アングル」を尊重し合えたら?

コミュニケーションはどう変わるだろうか?

唐突だが、思い浮かんだ概念がある。それはカウンセリング理論の創始者、カール・ロジャーズさんの言葉だ。

行動を理解するためのもっとも有利な視点は、その個人自身がもつ内側からの視点(the internal frame of reference)によるものである。

(『ロジャーズ主要著作集2 クライエント中心療法』岩崎学術出版社)

この用語は、「内部的照合枠」とか「内的準拠枠」などと訳される。

これって、その人自身の「アングル」をあたたかく見守る「アングル」じゃないか!?

さらに、こんな解説も。

個人を診断名などの外部的基準から見るのではなく、その人自身が持っている視点(枠組み)から理解しようとすることです。これは共感的理解にも結びつく、ロジャーズの人間理解の根幹を示す方法だと言えるでしょう。現在では、このような視点(枠組み)は、個人の中に固定してあるものというよりも、個人を理解しようとする人(例えばセラピスト)との間につくり出される相互作用的で間主観的なフレームであるというように再定義できるのでしょうが、「私があなたのことを正確に理解しているのか確認させてください」というカウンセリングにおける問いかけの基本原則が口ジャーズのこの用語から生まれたことは間違いありません。 (末武康弘)

「これってあなたの感じてる『アングル』に近いっす?」とか…

自分自身のいろんな「アングル」に気づいたり、相手の人自身の「アングル」に気づいたり、あえて嫌いな「アングル」をお互いにシェアしてみたり、「正面」をズラしたり、いろいろ実験してみたいと思います。

いろんな「アングル」募集中!!

アレクサンダーテクニークが(わたしにとって)面白いのは、「アングル」(見方)を変えたりするんじゃなくて、

「眼筋を緩めたり」「眼窩の空間の距離を想ってみたら」

とか、身体的に自分自身にアプローチしてゆくことだ思う。

西念寺さんのWSで会いましょう。

アレクサンダー・テクニークやら、カウンセリング(特にロジャーズさん)その周辺からの一レポートでした。

どうぜん拝

「その焦点は、問題にではなく人にある」

(C・R・ロジャーズ)

聖徳太子「十七条憲法」第十条

十に曰(いわ)く、忿(いか)りを絶(た)ち瞋(いか)りを棄(す)て、人の違(たが)うを怒(いか)らざれ。人皆(みな)心あり、心各(おのおの)執(と)るところあり。彼是(かれぜ)とすれば則(すなわ)ち我は非(ひ)とし、我是(ぜ)とすれば則ち彼は非とす。我必ずしも聖(せい)に非(あら)ず、彼必ずしも愚に非ず、共に是(これ)凡夫(ぼんぷ)のみ。是非(ぜひ)の理り、なんぞよく定むべき。相共に賢愚(けんぐ)なること、鐶(みみがね)の端(はし)なきが如(ごと)し。是(ここ)を以(もっ)て、彼(か)の人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえって我が失(あやま)ちを恐れよ。我独(ひとり)得たりと雖(いえど)も、衆に従って同じく挙(おこな)え。

【どうぜん訳】自分自身のアングルが受け入れられなかったからと言って、怒らないほうがいい。人それぞれに心のアングルがあり、それぞれに大切な身心の習慣なのだ。相手の人自身がこれこそが最高のアングルだといっても自分には最低のアングルに見えることもあると思うし、自分がこれこそ最高のアングルだと思っても相手の人自身にとってはまあまあだったりする。自分は必ず聖人で、相手が必ず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。これがよいとかよくないとか、だれが定め得るのだろう。一つのアングルだけを、あるいはアングルを一つにしようと押し付けてはいけない。それはある意味暴力なんだぜ。互いに賢くもあり愚かでもあり、それは耳輪には端がないようなものだ。相手が憤っていたら、なんか僕らが思ってるアングルより大きなアングルがあったらもしかして面白しろくなくなくない?自分はこれだと思っても、人々のアングルを聞き、一緒に行動してみましょう。どうなるかわかりませんが!?未知との遭遇よ!