安居にはじめて懸席させていただきました。安居とはもっとも伝統ある本山の勉強会で、7月後半に集中して行われます。
勧学、司教和上の講義と会読というテーマ別議論とで構成されています。
今回、私は特IMG_0393に不来迎義を通して、真宗の特色を改めてお聞かせにあずかりました。かいつまんで言えば、自力の行者は定まる信心というのがないので、臨終まで自分の往生がどうなるかわからないが、真宗の他力の行者は摂取不捨の故に今ここで往生が定まるので臨終に来迎を期待する必要はないというということです。それどころか摂取の心光が常に私を照らしてくれているのです。また私は諸仏菩薩にすでに囲まれ護られているわけなのです。しかし、煩悩にさえぎられて私はそのことを見ることができず、財産欲や色欲等に走り回されています。今まで当たり前になるまで繰り返し聞かせていただいていたにもかかわらず、そのことの意味が心に突き刺さってきました。
正信偈でいえば「摂取の心光、常に照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛・瞋憎の雲霧 つねに真実信心の天を覆へり。たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」の味わいです。
浅田和上の「般舟讃」の講義で地獄のすがたを聞かせていただき、地獄が深くなるにつれて火焔の描写が多くなることを教えていただきましたが、私たちの業因のところでいえばこの世界が火の海とも言えるわけです。(善導大師もこの世を火宅とおっしゃています)そこに「汝一心正念にして直ちに来たれ」という本願招喚の勅命としての南無阿弥陀仏の名号が私の心に至りと届いている。そのことの意味を問わずにはおれませんでした。
また聖道門の天台の「己心の弥陀」清らかな自分の心に出会う教えと、善導大師の違いについても学ばせていただきました。善導大師はどうしたって煩悩から離れられず、この世界を実の世界だと思い六道を流転してしまうものは心を清らかにする教えに惑わされずに、弥陀の浄土を願生せよとおっしゃいます。
まさにどういうことをしたってなくならない私たちの煩悩。清らかな仏性など見ることはかなわない凡夫ですが、その煩悩のまっただ中に私の心にはっきりと触れられる名号となって阿弥陀如来は至り届いている。今も死ぬまでも一貫して私の心はあてたよりになならない。しかし、そのことに左右されない信心が私を貫いて下さる。そのことに感謝せずにはおれませんでした。
内藤和上の法話にあったように「凡情を遮せず」この煩悩のあるままで定まる世界に出させていただける、そのことの妙義を深く学ばせていただきました。
教学研鑽の勝縁として、これからも安居に懸席させていただきたいと思います。和上方、関係者の皆さま長期にわたってありがとうございました。
南無阿弥陀仏